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を日記体で記述したものである。徳川家康はこの吾妻鏡を常に座右に置いて愛読していたという。
その内容を『全訳・吾妻鏡』(永原慶二、新人物往来社、1976)から紹介しよう。
『建保四年(一二一六年)
六月大
八日 庚寅晴る。陳和卿参著す。これ東大寺の大佛を造れる宋人なり。かの寺供養の日、右大将家(頼朝)結縁したまふの次に、対面を遂げらるべきの由、しきりにもって命ぜらるといへども、和卿云はく、貴客は多く人命を断たしめたまふの間、罪業これ重し。値遇したてまつることその憚りありと云々。よってつひに謁し辛さず。しかるに当将軍家においては権化の再誕なり。恩顔拝ぜんがために参上を企つるの由これを申す。すなはち筑後左衛門尉朝重が宅を點ぜられ和卿を旅宿となす。まづ廣元朝臣をして子細を間はしめたまふ。
十五日丁酉晴る。和卿を御所に召して御対面あり。和卿三反拝したてまつり、すこぶる涕泣す。将軍(實朝)その禮を握りたまふのところ、和卿申して云はく、貴客は昔宋朝醫王山の長老たり。時にわれその門弟に列すと云々。この事、去ぬる建暦元年六月三日丑の尅將軍家御寝の際、高僧一人側夢の中に入りて、この趣を告げたてまつる。しかうして御夢想の事、あへてもって御調に出されざるのところ六ヶ年に及びて、たちまちにもって和卿が申状に符合す。よって御信仰のほか他事なしと云々。
十一月小
廿四日癸卯晴る。將軍家先生の御住所醫王山を拝したまはんがために、渡唐せしめたまうべきの由、思しめし立つによって、唐船を修造すべきの由、宋人和卿に仰す。また層從の人、六十餘輩を定めらる。朝光これを奉行す。相州・奥州しきりにもってこれを諌め辛さるといへども、御許容に能ばず、造船の沙汰に及ぶと云々。
建保五年
四月大
十七日甲子晴る。宋人和卿唐船を造畢す。今日数百輩の正夫を諸御家人に召し、かの船由比の浦に浮へんど擬す。すなわち御出あり。右京(義時)兆監臨したまふ。信濃守行光今日の行事たり。和卿の訓読に随ひ、諸人筋力を憂してこれを曳くこと、午の剋より申の尅に至る。しかれどもこの所の體だらく、唐船出入すべきの海浦にあらざるの間、浮び出づる能ばず。よって還御。この船いたずらに砂頭に朽ち損ずと云々。』

 

さて、ほどなくして私の見解に対する反応があった。実朝の渡宋船進水の失敗の話をしてくれというのである。人に話すためには現地調査が必要なので、あらためて鎌倉の海を眺めながら、鎌倉海岸を西から歩いてみた。
文部省唱歌「鎌倉」でおなじみの「七里ケ浜の磯伝い、稲村ケ崎、名将の、剣投ぜし古戦場」で有名な稲村ケ崎から由比ケ浜に出た。

 

 

 

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